田圃での作業が続いています。
2馬力のマイボニー( My Bonnie ) 管理機にて、ガタゴト・グゥァー・グゥァー 30間(54メートル)を行ったり来たりしています。稲の株を起こしながら、雑草の根も退治。
5畝の田圃は終え、本日午後からいつも画像でお届けしています1反5畝の田んぼに移動しました。
長丁場の作業です。(稲わらを纏める作業よりは短くて済むかしら?)
耳に届くのはエンジン音のみ、何を考えるでもなく、行ったり来たりの単純動作です。
この田圃に今まで何人の人が入って稲刈りをしたのだろう。
そういえば、幼少の頃、3歳前後? この田圃の側溝=水路は 堰 (せぎ) だったなぁ、小さなみずぐるまがあって愉快な思い出があるなぁ、あのみず車は何の用をしたのだろう?
堰が側溝になった頃の記憶がありません。
田圃に出向くことが全くなかったのです。
お田植えをしたことがない。
稲わらを牛木に掛けたことがない。
というより、20年ほど前まで田圃作業、畑作業をしたことがなかったのです。
要するに、両親の農作業の手伝いをしなかった、ということです。
台所作業と掃除は手伝いました。厭だったな、農繁期の食事の支度の手伝い。
何が好きだったのか? よくわからない。
敢えて言うなら、木登り。
当時、我が家の裏に無人となった屋敷がありました。
その敷地内にそれはそれは素晴らしい樫の木がありました。
塀を足掛かり、木に登り、程よい高さのところに椅子のように座ることが出来る太い枝がありました。やかまし村の子どもたちよろしくその木に登って、遊びました。
近所に性格の穏やかな、男の子がいまして、その彼が木の下から何やらぶつぶつ言いますので、「 君も登ればいいじゃん やってごらん、できるよ かんたんだよ できないの いくじなしだなぁ」と、いじめに近いようなことを言った記憶があります。
その樫の木の上で、遠い世界に想いを馳せていた時もあった。
冬のある日は。
マッチ売りの少女が見た街の中の様子。
窓から見た七面鳥が食卓にあるクリスマスツリーの部屋の中。
七面鳥を焼いて、と当時、祖母にお願いしたら、日本には七面鳥はいない、の一言でお終い。
クリスマスツリーが欲しいとお願いしたら、
モミの木は多分、祖父が美しい陶器の鉢に設えてくれました。
(我が家の山から採ってきたのか、苗木屋さんから買ったのか?)
オーナメントなぞというおしゃれな品は何もない。その言葉も知らない。
それでも器用な長兄がお飾りを手作りできると期待しながら、加えて、雪も飾ったらさぞクリスマスツリーらしくなるだろう。
雪を模して使うために白い綿を想像してはやり祖母にお願いした。
用意してくれたのは、祖母が家族用に綿入れ半纏を作っていた時の打ち直しの綿。
白くない、アイボリーです、しかも黒いゴマのようなゴミ見たような物も。これに酷くがっかりしてクリスマスツリーはいらない、と言ったのを記憶しています。日本製の綿は打ち直しでなくとも、真っ白でないことは数年後には理解しました。
記憶に両親が登場しないのは、忙しく働いていて、子どものお愉しみに付き合うことがなかったのです。
この頃の両親の記憶は、特に父曰く、子どもがコーヒーを飲むと馬鹿になるということで、ココアを作ってくれました。父の記憶はココアと明治の板チョコ そうそう練乳もあったな 女の子がチューブに描かれていた 明治の練乳。
母の記憶は、雨の日のミシン掛け。洋服の仕立てではなく、擦り切れそうなズボンの膝の修繕でした。
ジューキ編み機のジャッジャッと動く音。セーターを編んでくれた。
そして、鍵針でモチーフをたくさん作ってチョッキに仕立ててくれたなぁ。
田舎にも少しずつ、ひたひたと西洋の色が入り込んできた昭和40年代前半です。
クリスマスケーキはバタクリームでした。直径30センチほどのホールにバタクリームでバラの花や樅の葉を模して美しく飾られていました。
往事茫々。
今年のクリスマスはずっしりケイク古典風を焼こうかな。
それにはすぐに準備を始めなければ。
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |